歴史

高知の歴史はこの人なしでは語れない 幕末のヒーロー

高知の歴史はこの人なしでは語れない 幕末のヒーロー

坂本龍馬の軌跡

龍馬が誕生したのは、今からおよそ180年前の天保6年11月15日。土佐国土佐郡上街本町一丁目、現在の高知県高知市上町一丁目にあった土佐藩郷士坂本家の二男として生を受けました。

ちなみに坂本家は、もともと質屋や酒造業、呉服商を営む豪商才谷家からの分家です。郷士と聞くと貧しいイメージを持たれがちですが、坂本家は分家の際に多額の財産を分け与えられたために、大変裕福な生活を送っていたといわれています。

龍馬の家族は龍馬を含めて7人。父の八平、母の幸、兄の権平と姉の千鶴、栄、乙女です。この中でも最も有名なのは乙女でしょう。これまで、龍馬が家族にあてた手紙が多数見つかっていますが、その中でも姉の乙女に宛てた手紙は特に有名です。龍馬がいかに乙女を慕っていたかが分かりますね。

後に幕末のヒーローとして名を馳せる龍馬ですが、幼少期は気弱で大変な泣き虫だったといいます。漢学の塾へ入学しても退塾し、剣術道場へ通っても一向に上達しない…このような弱虫龍馬を救ったのが姉の乙女です。男勝りの乙女は、勉強も武芸も優れていたため、幼少期の龍馬を徹底的に鍛えたといわれています。

 

海の向こうを見る坂本龍馬桂浜の龍馬像

 

旅立ち

そんな龍馬を大きく変えたのが、実母である幸の死です。その頃の龍馬はまだ10歳。その悲しみは計り知れませんが、この悲劇を乗り越えながら龍馬はたくましく成長していきます。

嘉永元年には、土佐藩士である日根野弁治の道場で小栗流という流派を学び始めます。ここでは、かつての気弱な龍馬は影をひそめ、猛烈に稽古に打ち込んでいたといわれ、入門から5年後には「小栗流和兵法事目録」を得ることになります。

それから間もなくして、剣術にさらなる磨きをかけるために、江戸へ向かいます。道場は現在の東京都中央区八重洲にあった北辰一刀流の桶町千葉道場。ここでも龍馬は他の門下生を圧倒するほどのスピードで上達し、わずか5年で「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられます。
道場主であった千葉定吉には長男の重太郎の他に三人の娘がおり、その内の一人であるさな子は龍馬の婚約者だったともいわれていますね。

また、同時期には幕末の思想家、佐久間象山の私塾にも通って砲術、漢学、蘭学などの学問も学んでいましたが、象山が吉田松陰の米国軍艦密航事件に関わっていたとし投獄されてしまったので期間は短かったそうです。

江戸での遊学を終えて土佐へ帰った龍馬は、尊王攘夷思想に傾倒し、武市半平太を中心に結成された「土佐勤王党」に加わります。実は党首の武市と龍馬は遠い親戚だったため、幼い頃には一緒に遊んでいたそうで、龍馬は武市に対して唯一敬語を使わない間柄であったという逸話が残っています。

土佐勤王党の一員として、四国・中国・九州などへ向かい動静調査を行うといった活動を続けていた龍馬ですが、後に脱藩。脱藩の理由については諸説ありますが、最も有力な説は薩摩藩の勤王義挙に参加しようとしたためだとされています。
脱藩は藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱すること。家族も同様の罪に問われるため、当然ながら兄の権平には強く警戒されますが、脱藩を決行。晴れて(?)罪人として道を歩み始めます。

下関や京都などへ立ち寄った後、文久2年に江戸へ到着した龍馬。かつて修行を行った千葉道場で生活をおくっていたある日、生涯の師となる勝海舟と運命的な出会いを果たします。龍馬は開国論者であった勝を斬るために屋敷を訪問したという有名なエピソードがありますが、幕府政事総裁職の松平春嶽から紹介状を受け取っていることから、このエピソードは勝の創作の可能性が高いといわれています。

勝の取りなしによって脱藩の罪を許された龍馬は、いよいよ歴史の表舞台へと立ち始めます。
勝の教えを受けた龍馬は、勝が進めていた海軍操練所設立のために奔走。一方、土佐では土佐勤王党への弾圧が本格化し、武市半平太をはじめとした、かつての同志達が次々に処刑されてしまい龍馬は多くの仲間を失ってしまいます。
悲しみに暮れる暇もなく奔走した龍馬の力添えもあり、元治元年、神戸に海軍操練所が設立されます発足。同じ頃には後に妻となる楢崎龍と出会います。

太平洋に臨む海岸龍馬が愛した郷里「桂浜」

亀山社中・そして薩長同盟へ

その後も龍馬の歩みは止まることなく、慶応元年には薩摩藩からの出資を受けて日本で最初の株式会社とも呼ばれる「亀山社中」を設立。当時、商人が多く集っていた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、事務所は京都の酢屋と下関の伊藤助太夫家に置かれました。長州の桂小五郎と会談を行ったのもこの頃で、薩摩藩との「薩長同盟」へ向けた動きも本格化させていきます。

そして慶応2年1月8日、龍馬の仲介によって後の明治維新へと繋がる歴史的な盟約、薩長同盟が結ばれます。龍馬は薩摩、長州両藩の間を取り持ち、交渉をまとめた立役者として知られていますが、実際には薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀らから指示を受けて動いていたとされる説もあります。

薩長同盟によって、いよいよ倒幕の動きが活発になっていくなかで、龍馬は亀山社中を海援隊と改称し、土佐藩の外郭団体的な役割を果たすことになります。
海運通商活動を通して、龍馬は蝦夷地、現在の北海道開拓も目指していました。その夢が叶う日はとうとう訪れませんでしたが、坂本家の子孫は龍馬の夢を継いで北海道に渡っています。北海道の函館市に龍馬の記念館があるのも、これらの構想と子孫が由来だとされています。

慶応3年には、同じ土佐藩の後藤象二郎とともに大政奉還を画策し始め、後に成立する明治新政府の網領となる八項目、船中八策をまとめました。薩摩や長州を中心として、武力倒幕の気運が高まるなか、龍馬はあくまで平和的に幕府を終わらせる道を模索していたのでしょう。慶応3年10月14日、15代将軍徳川慶喜が政権を返上。徳川264年の歴史に終止符が打たれました。

亀山社中を海援隊と改称しそして時代は大政奉還へ

 

龍馬の夢

たとえ倒幕が成り、新政府が発足しても、そこに参加するつもりはなく、船で世界中を周りながら商売することを夢見た龍馬。
しかし、大政奉還からわずか1ヶ月後の慶応3年11月15日。定宿にしていた京都の近江屋にて、同志の中岡慎太郎と共に斬殺。十津川郷士を名乗る数名が近江屋を訪れたのは午後八時頃。そのまま二階へと駆け上がり、従僕であった藤吉を斬った後に龍馬たちの部屋に押し入りました。脳が垂れ流れるほどに額を深く斬られるなど、傷は数カ所にわたり、ほぼ即死だったといわれています。
こうして31年の短い生涯に幕をおろした龍馬。この日は龍馬の誕生日でもありました。

混沌とした時代を、まるで龍のごとく一気に駆け抜けた龍馬。数々の伝説を残した幕末のヒーローは、他の志士達と比べても群を抜いて高い人気を誇ります。
高知県には、高知市の桂浜にある銅像や記念館をはじめ、脱藩時に通った山道など、いたるところに龍馬ゆかりの地があります。それらの地を巡る龍馬ツアーを計画して高知県を訪れてみるのも楽しいかもしれませんね。

高知駅前の龍馬像と龍馬伝 幕末志士社中高知駅前の三偉人像|坂本龍馬|武市半平太|中岡慎太郎