歴史

土佐が生んだ幕末の志士5傑

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1603年から長きにわたって続いた徳川政権を倒すため、江戸時代の末期には日本中から多くの若者が立ち上がり、倒幕に向けて動き出しました。

のちに彼らは幕末の志士、または維新の志士と呼ばれるようになり、今では近代日本の礎を築いた英雄として称えられています。

中でも「薩摩」「長州」「土佐」の三藩は「雄藩」や「勤皇三藩」などと呼ばれ、維新の最前線に立つ原動力となったとともに、のちの世に名を残す数多くの有名志士を生み出したことで知られています。

「土佐藩」は、言わずもがな私たちの地元高知県の旧国名。

幕末の志士の中でも抜群の人気と説明不要の知名度を誇る坂本龍馬を生み出した国であることは周知の通りです。

しかし土佐出身で歴史に名を残した志士は、当然ながら龍馬だけではありません。あまりにも龍馬の存在感が大きすぎるために、その陰に隠れてしまいがちな土佐出身の志士は数多く存在し、しっかりとのちの世に名を残しています。

幕末ファンからしてみれば、土佐出身の志士の名前など基本の基であると嘲笑されてしまいそうですが、歴史に対して興味が薄い人に問いかけてもみても、なかなかスラスラとは答えられないものです。

そこで今回は龍馬以外の土佐出身志士の中でも特に有名な5名をご紹介します。

武市半平太

武市半平太

1829年に現在の高知市仁井田吹井で誕生した半平太は、幼少のころから学問と武芸に邁進する文武両道の剣術家でした。ちなみに龍馬とは縁戚であり、子どもの頃には共にスズメを捕まえるなどして遊んでいたという逸話が残されています。

27歳で江戸へと剣術修行に出かけ、鏡心明智流の士学館に入門すると、剣術の才能をいかんなく発揮して入門から1年で塾頭になります。

日本各地で攘夷運動の機運が高まりをみせるなか、剣術修行を終えた半平太は土佐へと帰国し、郷士などの下級武士を結集し尊王攘夷を掲げる土佐勤皇党を結成。結成当初の党員は少数でしたが、最終的に192人が加盟した土佐勤王党は、藩体制にも大きな影響を与える結社として藩主の山内容堂らから危険視されるようになります。

公武合体論を唱える藩との対立へと発展しますが、参政である吉田東洋を暗殺することで実質的に藩政の主導権を握りました。その後、一度は藩論を勤皇へと一変させますが、京で八月十八日の政変が勃発し、尊王攘夷を掲げる長州藩が敗れると藩内は再び公武合体論へ変換。同時に土佐勤王党へ対する弾圧が始まります。

党員が次々に粛清されるなかで、半平太もついに捕らえられ、およそ一年半の獄中生活を経たのちの1865年に切腹を命じられ37年間の生涯を閉じました

中岡慎太郎

中岡慎太郎

龍馬の盟友として、のちに薩長同盟の締結に向けて動くことになる中岡慎太郎は1838年に安芸郡北川村柏木で誕生しました。

半平太の道場にて剣術を学んだ慎太郎は、19歳になった1861年に土佐勤王党に加盟し、本格的に志士としての活動を始めます。

土佐勤王党への弾圧が本格化すると、慎太郎は藩を脱藩して長州藩の三田尻へと脱藩。同じように脱藩した志士達のまとめ役をするとともに、都落ちした公家の三条実美の衛士となって、各地の志士達との連絡役を務めました。

活動方針を尊王攘夷論から武力倒幕論へと発展させると、倒幕のための軍事力を高めるために薩摩と長州の締結を望む志士達の意を汲み、両藩のまとめ役として龍馬とともに精力的に動き回ります。

1866年には薩長の和解へと導き、念願の薩長同盟を結実。翌1867年には龍馬ともども脱藩の罪を許され、今度は薩摩と土佐の同盟へ向けて奔走し、武力倒幕を目的とした薩土密約と王政復古実現のための薩土盟約締結に成功しました。

長州の高杉晋作が率いた奇兵隊を模して、武力倒幕と藩主の山内容堂を護衛する目的に陸援隊を結成するものの、同年11月15日、京都四条の近江屋に滞在する龍馬を訪ねた際に襲撃を受け瀕死となり、翌日の16日に30歳で死亡しました。

板垣退助

板垣退助

明治時代に行われた自由民権運動の主導者として知られる板垣退助も、土佐が生んだ志士のひとりです。

生まれは高知城下である、現在の高知本町通2丁目で、幼い頃は現在に伝わる聡明な政治家としてのイメージとはほど遠い、わんぱくな少年だったようです。

土佐藩の武士身分のなかでも最上位の家格である上士であったため、武市半平太や中岡慎太郎らが所属する土佐勤王党を弾圧する立場ではありましたが、龍馬の脱藩罪の赦免にも奔走するなど、身分の低い下士に対しても寛容であったといわれています。

土佐藩の上士としては珍しく、武力倒幕を主張していたことから中岡慎太郎とも盛んに交流し、薩土密約の締結にも尽力します。

1868年に始まった戊辰戦争では、土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊の総督として参戦し、甲州勝沼の戦いでは近藤勇が率いる新撰組を撃破するなど大きな功績を残しました。

維新後は新政府の参与に就任し、地元である高知県の大参事も務めたほか、1871年には政府の参議を歴任。

しかし1873年には、武力をもって朝鮮を開国させようとする征韓論を主張したものの、大久保利通らとの対立を深めたことにより政府を去ります。

その後の板垣は、1874年に愛国党を結成し同志の後藤象二郎らとともに左院へ民撰議院設立建白書を提出するも却下されますが、今度は高知にて立志社を設立。1875年には政府に参議に復帰したものの、再び辞職すると、議会制政治を目指して自由民権運動を推進します。

1881年には日本で最初の政党である自由党を、帝国議会の開設後は一度解体していた自由党の各派を結集し立憲自由党を結成。そして1898年の憲政党の結成によって、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣では内務大臣として入閣を果たしました。

後藤象二郎

板垣退助と同じく、高知城下で生まれた上士の後藤象二郎。

身分の低い下士に対して寛容な態度で接した板垣とは対照的に、土佐勤王党へも厳しく弾圧した後藤は、藩主の山内容堂からの信頼も厚く、藩が推進する公武合体派の急先鋒として活躍しました。

しかし龍馬との親交を深めたことによって倒幕に傾倒し、龍馬の発案である船中八策をもとに大政奉還の建白を藩主の容堂に進言。結果として徳川慶喜がこれを受け入れたことにより、およそ260年間つづいた徳川幕府の時代は終わりを遂げることになります。

維新後の後藤も政治家として活躍。板垣とともに愛国党を結成して民撰議院設立建白書を提出したほか、黒田内閣や第一次山県内閣、第一次松方内閣では逓信大臣を、第二次伊藤内閣では農商務大臣を歴任しました。

また土佐出身の商人である岩崎弥太郎が創業した三菱を支援するなど、経済界にも影響を与えています。

吉村虎太郎

高岡郡津野町で、庄屋の息子として生まれた吉村虎太郎は、12歳の時に父の跡を継ぎ、北川村庄屋となり、その後は須崎郷浦庄屋になります。

同時期に武市半平太の下で剣術を学びながら、尊王攘夷に傾倒し、1861年の土佐勤王党結成とともに参加するものの、のちに脱藩。初めての土佐脱藩志士となりました。

脱藩後に一時、捕らわれてしまいますが、1863年に再び京へと登り、明治天皇の叔父である中山忠光を大将として同志39人と天誅組と呼ばれる倒幕を目的とした武装集団を結成しました。

大和(現在の奈良)の五条大官所を襲撃した天誅組の変を起こし、武力倒幕への道を突き進もうとしますが、その直後に京では八月十八日の政変によって長州を筆頭とした尊攘派によるクーデターが失敗に終わり、尊攘派の後ろ立てを失った天誅組は孤立します。

それでも一矢報いようと、十津川郷士と結束して高取城に攻め込んだものの大敗し、天誅組は壊滅。戦で重傷を負い歩行困難となった吉村は籠に乗せられて運ばれる途中に津藩の兵によって射殺されました。

吉村が残した「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」という辞世の句は、残された多くの土佐志士たちを奮い立たせたといわれています。